― 出身大学OBOG座談会で考えたこと ―
先日、定期的に開催される、出身大学のOBOGによるオンライン座談会に参加しました。
そこで話題になったのは、子どもの可能性を広げるために、親はどこまでお金をかけるべきなのかという問いでした。
課金によらず芽生えた「学びたい」という気持ち
印象的だったのは、
「決して裕福な家庭ではなかった」と語る、とても優秀な方の話です。
その方は、小学生の頃までは勉強が得意ではなかったそうです。
授業についていくのも大変で、
当時は特別な目標を持って勉強していたわけでもありませんでした。
大きな転機となったのは、中学生のとき。
大切な家族を病気で亡くしたことをきっかけに、
「将来、製薬会社で働きたい」という思いが、はっきりと芽生えたそうです。
身近な人の死を通して、
「病気を治す側に回りたい」
「同じ思いをする人を減らしたい」
そんな強い動機が、自分の中に生まれたのだと思います。
誰かに強制されたわけでも、
親が進路を決めたわけでもなく、
人生の出来事がそのまま目標になった瞬間だったのでしょう。
その目的ができたことで、
「そのためには勉強が必要だ」と実感し、
そこから勉強に本気で向き合うようになったそうです。
その後、たまたま目にした科学のテレビ番組がとても面白く興味深かったことで、理系分野、学部選択の方向性が定まっていったそうです。
特別な塾や高額な教材に課金してもらったわけではなく、
身近な出来事と偶然の出会いが、
少しずつ進路を形づくっていったという話でした。
このエピソードから感じたのは、
学びへの意欲は、必ずしも親の課金によって一気に生まれるものではないということです。
むしろ、
人生の中で避けられない出来事
そこから生まれる切実な動機
そして、たまたま出会った情報や環境
こうしたものが重なったとき、
人は自分の足で学び始めるのだと感じました。
「与えない」教育と、親の罪悪感
また別の方は、
「日本は子どもに課金しすぎている」という趣旨の本を読んだ話をされていました。
・あれもこれも習わせる
・経験の機会をすべて用意する
そうした“与えすぎ”よりも、
与えないことも必要なのではないか、という考え方です。
ここで私が考えたのは、
「与えない」にも二種類あるということでした。
意図的に選んで「あえて与えない」
金銭的に余裕がなく「与えられないから与えない」
結果として子どもに与えない点は同じでも、
親が感じる罪悪感の大きさはまったく違うのではないか。
だからこそ、
生きていくだけの最低限のお金と、
子どもが「これをやりたい!」と本気で言ったときに応援できる
ほんの少しの余力があれば、それで十分なのではないか、と思いました。
お金か、時間か。限りある資源の使い道
この話題は、自然と
「限りある時間をどう使うか」という問いにつながっていきます。
特に子どもが幼いうちは、
・お金を稼ぐための時間
・今しかない、子どもと向き合う時間
この二つはトレードオフになりがちです。
もし生きていくだけのお金がすでに確保できているなら、
必ずしもすべての時間を
「将来のための課金」に向けなくてもいいのではないか。
お金をかけなくてもできる遊びを一緒に楽しむ。
会話をする。
失敗や成功を間近で見守る。
そうした関わりの中で得られるものは、
お金以上の価値を持つこともあるのではないかと思います。
座談会を通して見えたひとつの方向性
今回の座談会で明確な正解が出たわけではありません。
ただ、全体の流れとしては、
生きていくだけの最低限のお金
子どもの「やりたい!」を応援できる少しの余力
これがあれば十分ではないか、
という考えに多くの共感が集まっていたように感じました。
子どもの可能性は、
投入したお金の総額で決まるものではない。
親ができるのは、
課金し続けることではなく、
きっかけに出会える環境と、向き合う時間を用意することなのかもしれません。
おわりに
「もっと稼がなければ」
「何かをさせていなければ」
そんな焦りを抱えがちな中で、
この座談会は立ち止まって考える時間をくれました。
お金と時間、どちらも有限。
だからこそ、
どこにどう使うかを自分なりに選び続けることが、
子育てにおいて一番大切なのかもしれません。
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